努力と才能について

 努力の反対は才能ではありません。

  努力→意識的行動

  才能→無意識的行動による結果

 

 

 あいつは才能型だね、あいつは努力型だね。例えとして使うのならあまり不自然ではありませんが、対照的に使うのは違和感を覚えます。正反対の言葉ではない。

 

 極めたいなにかをAとします。

 

 努力

 人間だれしも、なにかを極めたいと思ったときにやるのは意識した練習というものです。Aを極めるために頑張ること。それが努力です。

 自覚して、○○を重点的に鍛えよう、△△を反省しよう。このプロセスは、だれもが共通している努力というものです。

 そう、努力というのは、自分が努力していると分かっているのです。

 

 才能

 才能のある人というのは、まずなにかを極めたいと思っているかいないかは関係なくて、自分がやっている行動すべてをAにつなげられます。

 

実は実証されていない? 「黒人は速い・強い」という常識は真実なのか? | ダ・ヴィンチニュース

 この記事をご覧ください。

 

 黒人選手が陸上最強というのは、人種的に筋肉量があーだこーだというのはあるかもしれません。

 けれども、重要なのはそこではない。黒人選手は発展途上国の出身であることが多く、車や自転車なんて使わずに走ってなにかをしていることが多々あります。

 

 このように、日本人とはかけ離れた生活を送っていて、そのかけ離れた生活が走るということに密接につながっているのであれば、そりゃ当然の話――日本人より足が速い人が多いですよね。

 

 それと同じことなんですよ才能というのは。

 普段の日常が、普段の生活が、普段の無意識的行動が、走るということと密接につながっているから、運動能力の高さにつながっているわけです。

 才能というのは、自分が努力をしていると分かっていません、気づいてもいません。

 

 

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 人間にとって、意識的行動というのは基本的に辛いことです。当たり前ですが、普通に暮らすということは、それはつまり無意識的行動をしているということです。

 努力は閉鎖的で、努力をしないのはとても開放的です。

 ただ、人によっては努力→結果→快感のプロセスを持っている人がいるため努力を行える人もいますが、残念ながら少数派です。(努力できる人のほうが少ないということ)

 

 以前の記事で集中力の違いの記事について書きました。

 私のなかで、人間的性能の差が生まれる才能というのは、普段の無意識的行動で集中力を鍛えるなにかをしているからこそ、人とその集中力の差、つまりは才能が生まれるんだと思っています。

 

 努力には限界があります。続けられる限界です。同じことを繰り返すのは辛いものですよ、それがどれだけ好きなことであっても。

 同じこと=Aを二十年以上つづけるのは難しい。

 けれど、才能のある人は、その同じこと以外から同じこと=Aにつなげられてしまうわけですよ。

 

 普段から山まで水を汲みに10km歩く生活をしている人は、それを走るための努力を思っていません。生活が努力につながっている。意識して続けるもクソもないのです。

 

 普段から車のナンバープレートで四則演算をして遊んでいる人は、それが計算を素早くする努力と思っていません。生活が努力につながっているだけで意識して努力していません。

 

 普段から絵を書いて遊んでいる人は、それが絵を上手に描く努力だと思っていません。お絵描きが大好きで、いざお絵かきで生活できるのかな?と思ったら、意外とできてしまった、みたいなもんです。

 

 もちろん、才能ある人たちの努力量を舐めているわけではありません。彼らがつらい思いをしていないとは思いません。

 ただ、一般人が感じる努力量よりも、少なく感じている可能性はある。

 そして、天才型の彼らですら溢れんばかりの努力を成し遂げたと感じるのなら……。

 

 それは一般人では到底追いつけない努力量なのです。

 

 そんな人達に、努力の人間が勝てるわけがない。

 

努力型『必死に頑張るぞ~』

 そんなふうに考えている彼らが、勝てるわけないんです。

才能型『自分は頑張ってなどいない。好きなことをしてたら周囲の人たちがなぜか努力してるね、と言ってくれた』

 

 こんな才能型に勝てるわけがないんです。

 

 みなさん、努力が上手いと下手があるのが分かりますか?

 これは要領が良いと悪いの差です。

 しかし、才能には上手いも下手もない。あるのは、彼のほうが才能が上だね。下だねという差。

 

 努力→意識的行動

 才能→無意識的行動による結果

 

 これが理由です。才能というのは行動ではありません。

 

 二十歳生きている人がいるとして、努力型が仮に八年努力したとしましょう。八年ですよ、大したもんです。

 才能型は二十年努力をしていると捉えられる。

 

 絶望ですわな。無意識的だからこそ、才能型は非効率的な場面があるかもしれない。けれど、月日の差は大きい。才能というのは、習慣的な努力をしていると言えるのです。

 

 天才ってのは、愚かでなければいけないんです。自分が愚鈍で努力なんてしていないただ生きているだけだ、遊んでいるだけだ。と思うようなバカ野郎じゃなければ、天才という領域には立てないのです。

 

www.youtube.com

 この動画の1:10辺りですね。灘中や灘高から東大理Ⅲに行った人たちは天才でない可能性が高い。という言葉……。

 努力を当然としている環境にいる。そして、彼ら自身、きちんと努力を自分たちがしている感覚がある。これは、天才ではないんですよ。

 

 また、2:10辺りですね。

 Genius=Intelligence×Foolishness→天才=賢さ×愚かさ

 もう一度、上に書いたことを。

 

 天才ってのは、愚かでなければいけないんです。自分が愚鈍で努力なんてしていないただ生きているだけだ、遊んでいるだけだ。と思うようなバカ野郎じゃなければ、天才という領域には立てないのです。

 

 以上、努力と才能について、でした。